シルヴィア・ライケンス



シルヴィア・マリー・ライケンス(Sylvia Marie Likens 1949年1月3日生)
 [アメリカ・殺人被害者]


 シルヴィア・ライケンスは、旅芸人一座の労働者であった父レスター・ライケンスと母ベティ・ライケンスの子供として誕生した。シルヴィアは2組の二卵性双生児の間に生まれ、2歳年上のダイアナとダニエル、1歳年下のジェニーとベニーという5人兄弟の3番目であった。ライケンス夫妻の結婚生活は不安定で、一家は頻繁に引越しを繰り返していた。シルヴィアはしばしばよその家に下宿させられたり、強引に親戚の家に預けられたりした。また、シルヴィアはベビーシッターやアイロンがけのアルバイトを行っていた。1965年には、祖母が万引きで逮捕、拘留されたために、インディアナポリスで母親と一緒に生活していたが、その時期にシルヴィアの妹であるジェニー・ライケンスがポリオの後遺症で身体障害者となった。その頃妻と別居していたレスターは、娘たちの下宿先を探していたところ、知り合いであったポーラ・バニシェフスキーの母親であるガートルード・バニシェフスキーから、シルヴィアとジェニーの下宿を引き受けるとの申し出があった。レスターは週20ドルで娘たちを下宿させてもらうことに合意した。

 1965年7月から、ライケンス姉妹はバニシェフスキー家へ下宿しはじめた。姉妹は高校に通いながらバニシェフスキー家の子供達と一緒に生活し、日曜日にはガートルードと教会へ行ったりした。しかし、一週目に最初の20ドルの支払いが一日遅れると、ガートルードはライケンス姉妹を殴打した。それからまもなく彼女らは、それが実際には食料品店で購入したものであったにも関わらず、ガートルードにキャンディーを盗んだ疑いをかけられてさらに殴打された。1965年8月には、ガートルードはシルヴィアを言葉や物理的手段で虐待し始め、年長の子供達にはシルヴィアを殴打させ、階段から突き落とさせた。また、ガートルードはシルヴィアがボーイフレンドを作ったことに激怒し、性器を幾度も蹴りつけた。また、それは事実ではなかったにも関わらず、シルヴィアが妊娠していると糾弾した。その後さらに、シルヴィアを淫売と罵るようになり、淫売の汚らわしさと一般の女性のありかたについての『説教』をするようになった。また通学していた高校で、ガートルードの娘ステファニー・バニシェフスキーとポーラが売春をしているという噂を、シルヴィアが流しているという虚偽の疑いをかけられた。これはステファニーのボーイフレンドであったコイ・ハバードを激怒させ、シルヴィアは暴力を受けた。これを知ったガートルードは、ハバードやその他数人のクラスメート、近所の少年らによるシルヴィアへの暴行を後押しした。ガートルードは妹のジェニーにまで、シルヴィアへの殴打を強制するようになった。

 1965年8月にヴァーミリオン夫妻はバニシェフスキー家の隣に引越してくると、すぐにシルヴィアが虐待され暴力を振るわれていることに気づいたが、当局へ通報しようとはしなかった。その頃、シルヴィアは高校で体操服を盗んだ。彼女は体操服を購入する費用をガートルードから貰えなかったために体操服が購入できず、このままでは体育の授業に参加できなかったのが原因であった。しかし、体操服をガートルードに発見されると、シルヴィアは暴行され、窃盗を自白させられて、煙草の火を押し付けられた。なお、煙草の火を押し付けるのはその後のガートルードの習慣となった。それ以降、ガートルードはシルヴィアを学校へ行かせなくなり、それから間もなく、再びシルヴィアを淫売と罵るようになった。さらに、ガートルードはクラスメートや近所の若者達の前で、強制的に下着を脱がせてストリップさせた。シルヴィアは涙を流しながらぎこちないストリップを行ったという。その後、ガートルードはシルヴィアの膣にコカコーラの瓶を強引に挿入したりした。なお、シルヴィアへの拷問は、非常に多くの性的要素を含んでいたが、一方で"性交渉なき性犯罪"と言えるものであった。シルヴィアは、ガートルードに性器を繰り返し蹴られ、クラスメートや近所の若者の前で全裸にさせられ、膣にボトルを挿入されているが、ガートルードがレズビアンとしてシルヴィアを嬲った根拠は報告されておらず、また、拷問に参加したいずれの若い男も、レイプやフェラチオを彼女に強いなかったと考えられている。これは通例から考えると不可解なことであるが、おそらくハバードがシルヴィアを強姦することでステファニーに浮気を疑われるのを恐れたのと、拷問に参加した若者たちは、"彼女が本当に淫売で、性交により性病をうつされると信じていた"のではないかと推測されている。

 コーラのボトルの強引な挿入によりシルヴィアが失禁するようになった結果、ガートルードは彼女を地下室へ閉じ込め、それ以降、『洗い清め』と称して熱湯をかけて入浴させ、火傷を生じた肌に塩を塗りこむようになった。また、トイレの使用も一切禁じられた。そして、シルヴィアはしばしば全裸の状態におかれ、食事もほとんど与えられず、時折、ガートルードと12歳の息子であるジョン・バニシェフスキー・ジュニアにより彼女自身の排泄物を食べるよう強いられた。その頃、妹のジェニーは姉であるダイアナ・ライケンスへ手紙で連絡を取り、自分とシルヴィアが体験している恐ろしい出来事の概要を伝え、姉に警察に通報するよう依頼した。しかしダイアナは、ジェニーは単にバニシェフスキー家で叱られたのが嫌で、バニシェフスキー家ではなく自分と一緒に暮らしたいがために話をでっち上げていると考え、この手紙を無視したのだった。この直後、ダイアナは妹を訪ねたが、ガートルードは彼女が家に入ることを拒絶した。そのため、ダイアナは妹のジェニーを確認できるまで近くの家に潜み、その後に妹と接触した。ジェニーは、ダイアナと話をすることが禁じられていることを語って走り去った。この出来事に不安を抱いたダイアナはソーシャルサービスに連絡した。ソーシャルワーカーがバニシェフスキー家にシルヴィアについて尋ねに行った時、ガートルードはジェニーにシルヴィアの居場所に関する嘘をつかせた。ジェニーは、ガートルードの言う通りにしない場合、姉と同様の目にあわせると脅迫されていたため、本当のことを語った場合に受ける仕打ちを恐れていた。そのためソーシャルワーカーは事務所へ帰り、これ以上バニシェフスキー家へ行って調査を行う必要は無い、という内容の報告書を提出した。


 10月21日、ガートルードはジョン・ジュニアとハバード、ステファニーに、シルヴィアを地下室から運び出してベッドに縛り付けるように指示した。翌朝、ガートルードはシルヴィアがベッドで失禁したことで激怒し、再びシルヴィアの膣にコカコーラの瓶を強引に挿入し、赤く熱した縫い針で腹部に"私は淫売で、そのことを誇りに思う(I'm a prostitute and proud of it)"と刻み付けた。ガートルードは1人で文章を刻み付けきれなかったので、リッキー・ホッブスに残りの文字を刻ませた。翌日、ガートルードはシルヴィアを叩き起こし、両親への家出の手紙を意図した文章を書かせた。シルヴィアが手紙を書き終えると、ガートルードはジョン・ジュニアとジェニーに、シルヴィアを近所のゴミ捨て場に連れて行き、彼女がそこで死ぬように置き去りにするという計画を述べた。それを漏れ聞いたシルヴィアは、脱走を試みて階段を走り降りたが、玄関の扉を飛び出したところでガートルードに取り押さえられた。ガートルードはシルヴィアを家の中へ引きずり込み、再び階段から突き落として地下室へ監禁した。それ以降、食べ物はクラッカーしか与えられなかった。

 10月24日、ガートルードは地下室へ赴き、体罰用の木製のヘラでシルヴィアを殴打しようと試みた。しかし、ガートルードはシルヴィアを打ち損ない、外れたヘラは偶然に彼女自身に当たった。ハバードはシルヴィアの身体を踏みつけ、箒の柄で頭部を幾度も強打したため、彼女は地下室で昏倒した。10月26日火曜日の夕方に、ガートルードは子供達に、シルヴィアを(今回は熱湯ではなく)生ぬるい湯に入れてやるよう命じた。ステファニーとホッブスは、シルヴィアを地下室から上の階へ運び、服を着せたまま湯の入ったバスタブに放り込み、その後、服を脱がせて床のマットレスの上に全裸の状態で寝かせた時点で、シルヴィアが息をしていないことに気づいた。ステファニーは蘇生処置を試みたが、シルヴィアは蘇生することなく死亡した。ステファニーはパニックに陥り、ホッブスに警察へ通報するよう命じた。警察が到着すると、ガートルードはシルヴィアに強引に書かせた手紙を提出した。その手紙には、体操服の窃盗を除いて彼女が実際には行っていない様々な悪事の自白や、『シルヴィアが少年グループから金銭を貰う代わりにセックスすることに合意したが、少年たちの車で連れ回されたうえ、幾度も殴られ、煙草の火で火傷させられて、腹部に文字を刻まれた』という内容の文章が記されていた。しかし、ジェニーが警官の1人に「ここから私を連れ出して。何だって話しますから。」と囁き、保護されたことで事件が明らかとなった。ジェニーの証言によってシルヴィアの遺体が発見されたことから、警官たちはバニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョン・ジュニアのほか、ホッブスとハバードをシルヴィアへの殺人容疑で逮捕した。その他の近所の若者である、マイク・モンロー、ランディ・レッパー、ジュディ・ルーク、アンナ・シスコーは、傷害容疑で逮捕された。バニシェフスキー家のガートルード、ステファニー、ポーラ、ジョン・ジュニアのほか、ホッブスとハバードには、裁判まで保釈が認められなかった。

 シルヴィアの遺体には、多数の火傷や打撲傷のほか、筋肉や神経への損傷が見られることが検死報告より明らかとなり、さらに、シルヴィアは断末魔の苦痛の中で唇が殆ど断裂するほど強く噛み締めていたことが判明した。また、膣口は腫れ上がってほとんど閉じていたが、膣管を検査した結果、シルヴィアの処女膜は損傷を受けていなかったことから、ガートルードによるシルヴィアは淫売であり妊娠しているとの主張には信憑性に強い疑いが持たれた。なお、直接の死因は脳腫脹と脳内出血、および過酷且つ長期にわたる皮膚への損傷によるショック症状が原因であった。

 公判では、ガートルードは心神喪失を理由に無罪を訴え、また、欝や喘息などの病気がひどく、子供たちの管理などできなかったと主張した。一方、ポーラ、ジョン・ジュニア、ホッブズ、ハバードら未成年を担当した弁護士らは、彼らはガートルードに強制されて犯行を行ったのだと主張した。ガートルードの11歳の娘であるマリー・バニシェフスキーは、弁護側の証人として裁判所に出廷したが、彼女は取り乱して、ホッブスが焼けた針でシルヴィアの腹部に強引に文字を刻んだことと、ガートルードがシルヴィアを殴打し、地下室へ監禁したのを目撃したことを認めた。マリーの陳述が終了する際に、被告の弁護人は「私は、ガートルードが殺人を犯したことを非難する……しかし、心神喪失であった彼女に責任は無い!」と述べ、頭を軽く叩いた。

 1966年5月19日、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、死刑を免れて仮釈放なしの無期懲役の判決が下された。また、ガートルードの娘のポーラは公判中に女児を出産し、母親と同じ名前の"ガートルード"と命名した。判決は第二級殺人による有罪で無期懲役であった。ホッブズ、ハバード、ジョン・ジュニアも故殺で有罪となり、それぞれ懲役2年から21年の判決を受けて少年刑務所へ送られた。1971年に、ガートルードと娘のポーラは控訴を行った。控訴審でポーラは故殺を主張し、控訴審の判決から2年後に出所した。また、ガートルードは第一級殺人により有罪となったが、判決は懲役18年の有期刑であった。

 18年間の刑務所での生活においてガートルードは、裁縫工場で働き、若い女性受刑者の母親役を務める模範囚であった。1985年に仮釈放を受けた頃には、ガートルードの刑務所内では"ママ"のニックネームで知られていた。ガートルードの仮釈放に関するニュースは、インディアナ州の社会に大きな波紋を与えた。ジェニーとその家族は、テレビに出演してガートルードへの批判を行った。2つの犯罪対策グループのメンバーが、罪の無い人を守り、性的虐待に反対する連盟を結成して、インディアナ州を回ってガートルードの仮釈放に反対しながらライケンス一家の支援を行い、歩道でのピケ活動を始めた。2ヶ月の間にこのグループは、ガートルードの仮釈放に反対する署名をインディアナ州の市民から4500件も集めたが、これらの努力にも関わらず、ガートルードの仮釈放は認められた。仮釈放のための公聴会の席で、ガートルードは「あの事件で私がどんな役割をしたかは分からない……クスリを常用していたから。私は本当の彼女を知らなかった……でも、シルヴィアの身に起きたことについては全ての責任を私が負います。」と述べている。ガートルードは1985年12月4日に出所し、ナディーン・ヴァン・フォッサンへと改名し、アイオワ州へ移住した。1990年6月16日、アイオワ州で肺ガンにより60歳で死去した。当時、既に結婚してインディアナ州ビーチグローブに住んでいたジェニーは、ガートルードの訃報を新聞で知り、記事の切抜きに"良いニュースだ。忌々しいガートルードの婆さんが死んだ。私は満足だよ、ハハハ!"と記したメモを付けて母親へ郵送した。その後、ジェニーは2004年6月23日に心筋梗塞により54歳で死去した。インディアナ州東ニューヨーク通り3850番にあった、シルヴィアが拷問され、殺害される事件があって以降、44年間に渡り荒れ果てた空き家であった家は、2009年4月23日についに取り壊された。

 1965年10月26日死去(享年16)

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