陸英修



陸英修(ユク・ヨンス 1925年11月29日生)
 [韓国・朴正煕大統領の妻]


 忠清北道沃川郡生まれ。培花高等女学校を卒業した後、1950年に、当時陸軍中佐だった朴正煕と結婚し、1男2女をもうけた。夫の大統領就任後は、政治外交史や歴史学、英語など多方面に亘って、著名な大学教授達から毎週講義を受けることで、政治と社会問題に視野を広げ続け、ファーストレディとしても、韓服姿に穏やかな表情によって、国民に素朴な印象を与え続けた。

 家庭でも主人に尽くす妻だったと伝えられている。また、福祉・教育に深い関心を持ち、幾度となく孤児院や保育園へ足を運び、子供達への教育・福祉に対する政策を広げるなどした。1969年4月には、子供の為の福祉財団である育英財団を設立し、子供大公園や子供会館の建立を主導した。他にも、ハンセン病患者達が収容されている施設を訪問して、自活支援事業を展開する、貧困者を対象とする職業訓練施設を設立する、ベトナム戦争に派遣された将兵達の家族への慰問と慰労を重ねる、災害現場へも自ら直接出向き、被災者達を親しく慰め、勇気づけるなど、積極的にファーストレディとしての役目を果たし続けた。私生活においても、使用人達の面倒を見る寛大な性分で、周囲の尊敬を受けた事でも知られている。

 こうした行いから、「国母」と呼ばれ尊敬されていた。朴大統領が学生運動などを抑え込むなど強圧的な姿勢で対峙し、国民からの評判も決して良くなかった時代の中でも青瓦台の野党とまで称された。朴大統領に反感を持つ人でも、陸夫人には好意的な印象を持つ国民も多かった。

 1974年8月15日、ソウルの南山にある奨忠洞国立劇場大ホールで開かれた光復節記念式典会場において、文世光が撃った銃弾が頭部に命中し、死亡した。予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、朴大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲したが、朴大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた陸英修の脊髄に命中、第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。

 陸はソウル大学付属病院に搬送されたが、5時間40分に及んだ手術もむなしく、同日午後7時に死去した。また、式典に合唱団の一員として参加し、客席に座って演説を聴いていた女子高生・張峰華(当時17歳)も、ステージ上にいた警護員が彼女の客席付近を走っていた文に向けて射撃した際の流れ弾に当たり、死亡した。

 朴大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。

 文は実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、ソウルパレスホテルのフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山の国立劇場に潜入していた。国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかったが、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。当初、文は大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念している。

 10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事や牧師、刑務官など約10人が立ち会いのもと、「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。

 1974年8月15日死去(享年48)


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