芥川龍之介



芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ 1892年3月1日生)
 [小説家]


 東京生まれ。牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれが、生後7ヶ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に引き取られた。代々江戸城の奥坊主を務めた家柄である芥川家に育ったため、文芸、芸事への関心を早くからもった。1913年、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。東京帝大在学中の1914年に『老年』を発表。同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次・第4次)を刊行。1915年『羅城門』、1916年『鼻』を発表して夏目漱石に認められ、華々しく文壇に登場した。

 東京帝大卒業後の1916年12月、海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った。1917年3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。1919年3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文と結婚。1921年2月、横須賀海海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となった。1921年には海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。この旅行後から次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへと繋がっていく。1920年3月30日、長男芥川比呂志、誕生。1922年11月8日、次男芥川多加志、誕生。1925年7月12日、三男芥川也寸志、誕生。

 1927年7月24日、自室で雨の降りしきる中、芥川龍之介は服毒自殺を行い、社会に衝撃を与えた。服用した薬品については異説あるが、ベロナールとジェノアルとする説が一般的である。死の数日前に芥川を訪ねた、同じ漱石門下で親友の内田百間によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。既に自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。一方で、自殺の直前には身辺の者に自殺を仄めかす言動を多く残しており、実際には早期に発見されることを望んだ狂言自殺で、たまたま発見が遅れたために死亡したとする説がある。また、死後に見つかり、久米正雄に宛てたとされる遺書「或旧友へ送る手記」の中では自殺の手段や場所について具体的に書かれ、「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。(中略)…僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品(カルモチン)を手に入れようとした」とあることから、記述を信頼すれば計画的に自殺を企てていた節も窺える。

 遺書として、妻・文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙がある。芥川が自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名であるが、自殺直前の芥川の厭世的、あるいは「病」的な心境は「河童」を初めとする晩年の作品群に明確に表現されており、「ぼんやりした不安」の一言のみから芥川の自殺の動機を考えるべきではないとも言える。芥川命日は小説「河童」から取って河童忌と称される。死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川君の話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。

 親友で文藝春秋社主の菊池寛は、友人総代として弔辞を読んでいる。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。死の8年後、菊池が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けた。芥川賞は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いている。

 1927年7月24日死去(享年35)





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