伊勢ノ濱慶太郎



伊勢ノ濱慶太郎(いせのはまけいたろう 本名:中立慶太郎 1883年11月9日生)
 [大相撲力士]


 東京出身。父は明治中期(1880年代)に活躍した幕内力士の伊勢ノ濱荻右エ門で、祖父は行司9代木村庄太郎、従兄には年寄根岸治右エ門がいるという相撲一家の生まれ。日本橋の酒店に奉公していたが父親譲りの力自慢で、18歳の時に根岸部屋に入門した。1902年1月場所初土俵。しかし根岸部屋には土俵がなかったため名門友綱部屋に通い、太刀山、國見山らの胸を借りて成長した(のちに友綱部屋へ移籍)。出世は早く1905年5月場所十両に昇進、1906年5月場所に入幕した。

 しかしこの頃から素行が悪化、新入幕の場所は1勝しか挙げられず(3敗1預5休)、翌1907年1月場所には脱走をしてしまった。戻ったときには頭を丸めて周囲を驚かせたという。改心したかその後は稽古に励み、関脇に昇った1910年頃からは酒や煙草も断っていっそう精進に努めた。横綱常陸山を破るなど上位で活躍を続け、1913年5月場所、関脇で9勝1敗の好成績を収めて場所後に大関に昇進した。5年余りにわたり大関の地位にいたが横綱昇進は果たせず、晩年は神経痛やリウマチを患い1919年1月場所限りで引退、年寄中立を襲名した。

 現役時代の体格は、身長168cm、体重105kgで背は低く軽量だが筋肉質の体で力が強く、腰も重く粘り強かったという。左四つからの寄りや押し、上手投げなど俊敏な取り口を見せ、大関駒ヶ嶽や横綱2代西ノ海らの大兵を振り回して観衆を驚かせるほど勝負度胸もよく、江戸っ子力士ということもあって人気は高かったが、勝負度胸の余り慎重さを欠いて不覚を取ることもあった。土俵に上がれば力水は一度しかつけず、待ったもしないなど土俵態度が立派で力士の模範といわれた。

 引退後は相撲協会の理事・検査役も務め、頭脳明晰にして温厚な人柄から人望も厚かったが、1928年5月17日、宿泊先の静岡県沼津市の旅館で殺鼠剤(ネズミ駆除用薬剤)を飲んで自殺してしまった。

 1928年5月17日死去(享年44)


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