大下弘



大下弘(おおしたひろし 1922年12月15日生)
 [プロ野球選手/監督]


 兵庫県出身。1936年、台湾高雄市に移る。1940年3月、高雄商業学校卒業後、1940年4月、明治大学予科に進学。1943年には戦局の悪化でリーグ戦が中止となる。同年5月23日に立教大学との間で行われた、戦前戦中では最後の対外試合にも出場した。当時のチームの主将は嶋清一で、大下と嶋の打撃フォームの類似を指摘する説がある。同年、学徒出陣。陸軍少尉として、埼玉県豊岡にある陸軍航空士官学校にて終戦を迎える。終戦後、明治大学に復学する。

 戦後プロ野球再開と同時に新設球団セネタースに入団し、1945年11月の東西対抗戦で、戦後初となるサク越え本塁打を放ちデビュー。1946年に20本塁打を記録。この年のリーグ本塁打数は211であり、大下はリーグ全体の本塁打の1割弱(9.5%)を1人で打ったことになる(この割合を2008年パ・リーグの本塁打数752に当てはめるとシーズン71本塁打に相当する)。大下の出現は敗戦に打ちひしがれた国民を狂喜させ、空前絶後のホームラン・ブームが起こり、当時のリーグを代表する打者であった川上哲治でさえも本塁打狙いの打撃フォームに変えたほどである。

 1947年のシーズンからバットに青のラッカーを塗装し青バットを使って本塁打を連発、赤バットの川上哲治と共に大ブームを起こす。1947年シーズンは首位打者と本塁打王の二冠を獲得する。青バットは川上の「赤バット」に対抗する意味で青い色のスプレーで大下自身が染めていたが、バットの木の色が透けて見え、緑色に近く見えた。また、塗り方がよくなかったため、ボールに塗料がついてしまい、審判側から苦情が来たため使用を中止させられた。1948年6月10日の対中日ドラゴンズ戦では竹製のバットを使用し、5打数3安打と猛打賞の活躍を見せた。木製でないバットの使用は公認野球規則違反であり、そのことが発覚して罰金100円を支払った。

 1949年8月18日に札幌市円山球場で、日本プロ野球最長とも言われる推定飛距離170mの本塁打を放つ。同年11月19日の大陽戦で、日本プロ野球史上唯一の1試合7打数7安打を記録。1951年には当時の最高記録である打率.383で首位打者と本塁打王の二冠を獲得した。同年のリーグ2位は蔭山和夫の打率.31463であり、リーグ2位との打率差.068543は日本プロ野球歴代1位の記録である。

 1952年、母親の覚醒剤中毒をきっかけとする球団との確執がもとで周囲を巻き込んだ退団騒動となり、シーズン開始後に西鉄ライオンズにトレード移籍する。移籍後に後楽園球場の東急ファンから受けた野次に対し、大下は出塁した一塁上で観客席に向かって頭をペコリと下げ、これには東急ファンも黙るしかなかった。また、平和台事件(常軌を逸した観客の暴動事件)の際、暴行を受けて血まみれになりつつも観客を制止しようとした行動が称えられ、野口正明と共に連盟表彰を受賞する。

 1954年、ラリー・レインズに次ぐリーグ2位の打率.321を残してチームの優勝に貢献し、シーズンMVPを獲得。西鉄は1956年から1958年に日本シリーズ3連覇を達成する。大下は4番打者として稲尾和久・中西太・豊田泰光らと西鉄の黄金時代を築き上げた。

 1959年に現役引退。引退後はNHKの解説者、阪急ブレーブスの打撃コーチを務めたが、1年で解任。2年契約だったので、技術顧問の肩書きで翌年も球団に残ったが、全くの窓際扱いで、時にはお茶くみなど雑用もこなしていたという。その後は関西テレビ・フジテレビの解説者を務めた。1968年、東急の後身である東映フライヤーズの監督へ就任。監督時代は「サインなし、罰金なし、門限なし」の「三無主義」を打ち出した(実は大川博オーナーの発案で、大下の案ということにして実行させていた)が、最下位に沈みシーズン途中で辞任。当時は選手を「さん」付けで呼んだり、使わなかった選手に「申し訳なかった」と謝ったりなど、人の良さからペーソス(もの悲しい情緒)を誘う存在となっていた。1974年から1975年まで大洋ホエールズの打撃コーチを務め、長崎慶一、山下大輔らを一流選手に育てた。当時、大下夫妻は東京都世田谷区経堂に住んでいたが、大洋退団後は野球の盛んな千葉県の地を気に入り、千葉市稲毛園生の丸紅ファミールハイツに移り住んだ。

 プロ野球界から身を退いた後は少年野球の発展に努め、自身の団地の子供たちを集め、千葉ファミールズ監督として甲子園球児を多く育てた。少年野球チーム大下フライヤーズ(現:千葉市中央区大森フライヤーズ)監督、フジテレビ女子野球チームニューヤンキース監督、横浜市の本牧リトルリーグ監督などを歴任する。

 1978年6月、東京都隅田公園で少年野球指導中に倒れ、数日自宅で静養したが、国立千葉病院に入院。脳血栓と診断される。左半身麻痺の後遺症が残り、石和温泉などで懸命にリハビリに取り組んだが、麻痺は残り手足が不自由となり、自宅療養生活になる。1979年5月23日早朝、脳血栓の療養中に逝去。逝去翌年の1980年に小鶴誠・千葉茂と共に野球殿堂入り。逝去当時は「脳血栓の後遺症による心筋梗塞」が死因と報道されたが、のちに致死量の睡眠薬を自ら飲んでいたことが明らかにされている。墓所は千葉市若葉区にある市営平和公園墓地にあり、多くのプロ野球ファン及び関係者が墓参りに訪れるなど、根強い人気を誇っている。戒名は慈球院青打弘文居士。

 愛称は、打球を簡単にポンポン飛ばすことから「ポンちゃん」。また、その男前のルックスで女性にもよくモテた。豪放な性格で、私生活でも多くのエピソードが知られている。表向きはあまり練習もせず練習嫌いとも言われていたが、馴染みの置屋には大下のバットが常時置いてあり、早朝バットを振っていた、との伝説の類もある。大下本人や西鉄選手との遊郭をめぐるエピソードには事欠かないが、大下の妻は小遣いと別に「素人に手を出さないこと」を条件に「生理休暇代」を渡していたという。毎晩のように遊び歩き、また面倒見のよい性格で金が手元に残らなかったらしく、西鉄球団に莫大な前借りをしていた、と言われるがその金額は不明。西鉄時代は若手選手の面倒見がよく、河村久文と八浪知行を自宅に下宿させていた。大下は河村と八浪からは食費さえ取らなかったが、「遊びもしないとストレスがたまる」ということで大下の妻も交えた賭博を行っていたため、いつも負けてばかりの2人は大下夫妻にお金を巻き上げられていた。もっとも大下の妻はこの金をそれぞれの名義で貯金しており、2人が下宿を去る際にはそれぞれにこの預金の通帳を渡したという。そのことを知った2人は感動してそれまで以上に野球に打ち込み、西鉄初優勝(1954年)に河村はエースとして、八浪はムードメーカーとしてそれぞれ重要な役割を果たした。

 こうした奔放な「大人の遊び」の一方、子供が大好きで西鉄時代は平和台球場でのデーゲーム終了後、帰宅する大下の後をはしゃぎながらついていく子供たちの姿が目撃されている。大下は普段から自宅を子供たちのために解放しており、宿題を終えた子供たちに野球を教えたり、また夏にはキャンプを行ったりしていたという。酒豪であるとされ、7打数7安打のときは徹夜でのんだ後に打ったといわれた(本人は否定していた)。筆まめで、著書『大下弘日記―球道徒然草』は球界には珍しい、ゴーストライターを使っていない純然たる自著である。原稿は巻紙に毛筆でしたためていた。文語調で球界や自身の出来事を綴っている。

 1979年5月23日死去(享年56)


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